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越後上越三城物語
三城物語とは、嘗て上越には3つの城が有りました。年代順に見ていきましょう。
言わずもがなの春日山城です。
上杉家が去った後、堀家が城主となりましたが、暫く後、廃城となりました。
福島城は春日山城を廃した堀氏によって築城されました。
その3年後に改易となり、その後、徳川家康公の六男と言われる松平忠輝公が城主となり、4年後に廃城となりました。
高田城の築城には、舅様の仙台藩主、伊達政宗公が総監督として、前田家や上杉家などと共に携わったと伝えられています。
徳川一門なので75万石で入封、天下普請と言われています。

毎年8月の半ばに、地元の英雄、上杉謙信公の遺徳を偲んで謙信公祭が行われます。
暑い最中の行進は、さぞや、大変だろうと思います。皆、鎧兜を着けていますから。
ただ、米沢鉄砲隊の号砲は暑さを吹き飛ばします。
その暑い中ですが、大河ドラマ「天地人」以降の人出はたいへんなものです。

高田城址公園での観桜会は「100万人大観桜会」と銘打って例年は100万人以上の花見客で、ごった返しています。4,000本の満開は圧巻です。平成26年11月11日、日本三大夜城の一つに選ばれました。
東洋一と謳われた、高田城址公園外堀を埋める蓮は、夏の風物詩ですね。
上越まつりの中で圧巻なのが、直江津の祇園祭で、京都の八坂神社の分社で、高田の城下が形成された直後より神様が出向き、のちに川を下って、還御されます。
春日山の全景と春日山神社の銘石(揮毫は東郷元帥です。)。
築城以前は蜂ヶ峰と呼称され、山頂には春日神社があり(当時)、後に鎮護するという今の場所に移され、今に至ります。
山の名前も春日山と変わりました。

春日山山頂の本丸跡すぐ近くにある毘沙門堂です。
上杉謙信公が諸事の祈祷をされた所で、当時の場所より一区画ほど移動されてますが、なぜねそうなったかというと、この場所には不識庵という、建物があったと推察されます。
ちなみに、謙信公の法号は不識庵謙信といい、出家の後、謙信と号されました。多分に私的な建物であったと、想像されます。
よって、お葬式もここから出され、遺骸の安置もされていました。お墓になっていた、と言う、説もあります。
今の建物は、昭和に入って建てられ、きっかけは、安置されている、毘沙門天像を当代の上杉家より、寄贈された為です。
傍らには、今も不識庵院跡の碑が建っています。
毘沙門天像です。
春日山城跡の本丸跡脇の毘沙門堂に現在安置されているレプリカですが、嘗て本物の像が火災に遭い、後の修復の際、欠損部分を体内に埋め込み製作をされた方が、かの高村光雲さんです。
それを、上杉家当代当主がこの地に寄贈され、安置するための、今の毘沙門堂が建てられました。

林泉寺の手前が惣門で、後ろが山門です。
惣門はもともと春日山城の裏門を移築したものと言われています。ですから、約400年以上も経っています。
山門の裏側の扁額は謙信公自筆の、「第一義」が掲げられています。もちろん、本物は傍らにある、宝物館にあります。
妙高市に残る、上杉家関係の遺構・遺跡。
糸魚川市に残る、上杉家関係の遺構・遺跡。
参考リンク
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